Masuk真澄が蓮杖の家に通い始めて一ヶ月が経った頃の話。
ある日の午後、真澄は近所を散歩していた。蓮杖は稽古に出ていて、家の掃除も一段落ついたので、少し外の空気を吸いたくなったのだ。
住宅街を歩いていると、古い銭湯を見つけた。「松の湯」という看板が掛かっている。木造の建物で、煙突からは湯気が立ち上っていた。
「懐かしい……」
真澄は子供の頃、祖母と一緒に銭湯に通っていた。その記憶が蘇ってきた。
ふと、入ってみたくなった。蓮杖の家には立派な風呂があるが、たまには銭湯も良いかもしれない。
暖簾をくぐると、番台におばあちゃんが座っていた。
「いらっしゃい」
おばあちゃんは優しく微笑んだ。真澄は料金を払って、女湯に入った。
湯船に浸かると、体の芯まで温まった。ああ、やっぱり銭湯は良い。
湯上りに脱衣所で髪を乾かしていると、番台のおばあちゃんが話しかけてきた。
「お嬢さん、この辺は初めて?」
「はい。知り合いの家に通っていて」
「そう。良いところでしょう、この辺は」
おばあちゃんは微笑んだ。それから、何気なく尋ねた。
「知り合いって、もしかして鳳凰院さんのお宅?」
真澄は驚いて顔を上げた。
「え? どうして分かるんですか?」
「ああ、やっぱり。お嬢さん、鳳凰院家の匂いがするのよ」
「匂い……ですか?」
「白粉とお香のね。あの家独特の匂い」
おばあちゃんは懐かしそうに目を細めた。
「私ね、昔、芸者だったの。歌舞伎の楽屋にもよく出入りしてた」
「芸者……!」
「ええ。鳳凰院家とも縁があってね。蓮杖さんのお祖父様の時代から知ってるのよ」
真澄は目を丸くした。このおばあちゃんが、蓮杖の家のことを知っている。
「蓮杖さんのこと、ご存知なんですか?」
「もちろん。小さい頃から見てるわ。可愛い子だったわよ。今は立派な女形になって」
おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
「お嬢さんは、蓮杖さんとどういう関係?」
「え、えっと……お世話係、みたいな……」
真澄は言葉を濁した。おばあちゃんは意味ありげに微笑んだ。
「ふふふ、そう。でもね、お嬢さんの目を見れば分かるわ。あなた、蓮杖さんのこと、好きでしょう」
「え……!」
真澄は顔が真っ赤になった。おばあちゃんは優しく笑った。
「隠さなくていいのよ。良いことじゃない。蓮杖さん、お母様が亡くなってから、ずっと一人で寂しそうだったから」
「おばあちゃんは……蓮杖さんのお母様も知ってたんですか?」
「ええ。優しい方だった。でも病気で……可哀想に」
おばあちゃんは少し悲しそうな顔をした。
「蓮杖さんはね、お母様が亡くなってから、笑わなくなったの。たまにこの銭湯に来ても、黙って湯に浸かって、すぐに帰っていった」
「そうだったんですか……」
「でもね、最近、また笑顔が戻ってきたような気がするの。きっと、お嬢さんのおかげね」
おばあちゃんは真澄の手を取った。
「お嬢さん、蓮杖さんを大切にしてあげてね」
「はい」
真澄は力強く頷いた。
「蓮杖さんはね、優しい子なの。でも、歌舞伎の世界は厳しい。完璧を求められて、失敗は許されない。そんな重圧の中で、蓮杖さんは頑張ってる」
「私、知っています。だから、支えたいんです」
「それを聞いて安心したわ」
おばあちゃんは微笑んだ。
「もし困ったことがあったら、いつでもここに来なさい。話を聞くくらいはできるから」
「ありがとうございます」
真澄は深々と頭を下げた。
その後も、真澄は時々「松の湯」を訪れた。おばあちゃんは、歌舞伎の世界のことや、鳳凰院家のことを色々教えてくれた。
そして、真澄が蓮杖との関係で悩んだとき、おばあちゃんはいつも的確なアドバイスをくれた。
「女形ってのはね、舞台の上では女だけど、舞台を降りれば男なの。そのギャップに悩む人は多い。でも、両方を愛せる人がいれば、それが一番の幸せなのよ」
おばあちゃんの言葉は、いつも真澄の心に響いた。
銭湯のおばあちゃんは、真澄にとって、大切な相談相手になった。
それから半年が過ぎた。 十二月、再び師走がやってきた。真澄と蓮杖が出会ってから、ちょうど一年が経った。 真澄は歌舞伎座の広報部門で、順調にキャリアを積んでいた。歌舞伎の魅力を多くの人に伝える仕事は、やりがいがあった。 蓮杖は、若手女形のホープとして、さらに活躍の場を広げていた。テレビのドキュメンタリー番組にも出演し、歌舞伎の世界を広く知らしめることに貢献していた。 二人の生活は、穏やかで幸せだった。--- ある夜、真澄は居間で一人、考え事をしていた。 蓮杖は稽古に出ていて、まだ帰ってきていない。 真澄は窓の外を見た。庭の木々が、冬の風に揺れている。 一年前の今日、自分は蓮杖と出会った。 あの日、扇子を拾ったことが、すべての始まりだった。 推しだった蓮杖が、今は夫になっている。 それは、夢のような出来事だった。 玄関の扉が開く音がした。「ただいま」 蓮杖の声だ。真澄は立ち上がって迎えに出た。「おかえりなさい」「ただいま、真澄」 蓮杖は真澄を抱きしめた。その体は冷たかった。「寒かったでしょう。お風呂沸かすね」「ありがとう」 蓮杖は真澄の頬にキスをした。--- 夕食の後、二人はソファに座ってお茶を飲んだ。「真澄、覚えてる? 一年前の今日」「ええ。私たちが出会った日」「あの日から、僕の人生が変わった」 蓮杖は真澄の手を取った。「真澄がいてくれたから、僕は自分自身を見つけられた。完璧である必要なんてない。ただ、自分らしくあればいい。それを教えてくれた」「私も、蓮杖に出会えて幸せよ」 真澄は微笑んだ。「推しだった蓮杖が、今は夫になっている。これ以上の幸せはないわ」「これからも、ずっと一緒にいようね」「ええ。舞台で輝く蓮杖も、日常で私の隣にいる蓮杖も、す
新春大歌舞伎の公演は大成功に終わった。 初日のハプニングがあったにもかかわらず――いや、むしろそれがあったからこそ――蓮杖の演技は高く評価された。「鳳凰院家の新しい風」「若手女形の希望」。新聞や雑誌の評価は軒並み高かった。 しかし、蓮杖自身は、そうした外部の評価よりも、もっと大切なものを得ていた。 それは、「自分自身であることの自由」だった。--- 二月に入り、真澄は会社を辞めることを決意した。 蓮杖との生活を続けるには、もっと時間が必要だった。そして、真澄自身も、新しい道を歩みたいと思っていた。「本当にいいの?」 辞表を出した後、葵が心配そうに尋ねた。「うん。もう決めたから」「新しい仕事、見つかったの?」「ええ。知り合いの伝手で、歌舞伎関係の仕事を紹介してもらったの」 それは本当だった。蓮杖のマネージャーが、真澄を気に入り、歌舞伎座の広報部門で働かないかと誘ってくれたのだ。「歌舞伎? 真澄、そんなに詳しかったっけ?」「最近、すごく興味が出てきて。勉強してるんだ」 真澄は笑った。葵は少し不思議そうな顔をしていたが、最後には微笑んだ。「そっか。じゃあ、頑張ってね。でも、たまには会おうね」「もちろん」 二人は抱き合った。真澄は胸が熱くなった。葵は良い友人だ。いつか、蓮杖のことも紹介したい。--- 三月、桜の季節が訪れた。 真澄は正式に蓮杖の家に引っ越した。自分のアパートを引き払い、鳳凰院家の一室を借りることにしたのだ。「本当にいいの? 一緒に住んで」 引っ越しの日、蓮杖が心配そうに尋ねた。「もちろん。私、ここで蓮杖と暮らしたいの」「でも、僕の稽古や公演で、迷惑かけるかもしれない」「迷惑なんかじゃないわ。むしろ、そばにいたい」 真澄は微笑んだ。蓮杖も笑顔で応えた。「ありがとう、真澄。これから、よろしくね」「こ
真澄が何気なく投稿した写真がバズった話。 ある休日の午後、真澄と蓮杖は庭で過ごしていた。 十一月の穏やかな日差しの中、二人はベンチに座ってお茶を飲んでいた。タマも一緒で、蓮杖の膝の上で眠っている。「良い天気だね」 蓮杖が言った。真澄も頷く。「本当に。こんな日は、ずっとここにいたい」「僕もだよ」 蓮杖は真澄の肩に頭を預けた。真澄は微笑んで、蓮杖の髪を撫でる。 その瞬間、真澄はふと思いついて、携帯を取り出した。「写真、撮ってもいい?」「うん」 真澄はカメラを構えた。しかし、蓮杖の顔は写らないように、後ろ姿だけを撮った。庭の木々を背景に、ベンチに座る二人のシルエット。タマも一緒に写っている。「綺麗な写真だね」 蓮杖が覗き込んできた。真澄は微笑む。「この写真、SNSに上げてもいい? もちろん、蓮杖の顔は写ってないから」「構わないよ。どうせ誰も気づかないだろうし」 真澄は写真にフィルターをかけて、インスタに投稿した。 キャプションには「穏やかな午後」とだけ書いた。--- しかし、この投稿が予想外の反響を呼んだ。 最初は数人の友達が「いいね」をしただけだった。しかし、数時間後、真澄の携帯が鳴り止まなくなった。 通知が次々と届く。「いいね」の数が数百、数千と増えていく。「え……なにこれ」 真澄は驚いた。なぜこんなにバズっているのだろう。 コメント欄を見ると、驚くべきことが書かれていた。「これ、鳳凰院蓮杖じゃない?」「後ろ姿だけど、絶対蓮杖だよ」「庭の感じが鳳凰院家っぽい」「蓮杖、彼女いたんだ!」 真澄は慌てた。「蓮杖、大変!」 蓮杖も携帯を見て、目を丸くした。「えっ……バズってる」「どうしよう。みんな、あなただ
それから一週間が過ぎた。 真澄と蓮杖の関係は、表面上は何も変わらなかった。真澄は相変わらず毎日蓮杖の家に通い、彼の世話をしている。しかし、二人の間には、確かな変化があった。 恋人としての距離感。 蓮杖は以前より真澄に甘えるようになった。稽古から帰ると、真澄の肩に頭を預けて疲れを癒す。夕食の後は、二人でソファに座り、蓮杖の手が自然と真澄の手を探す。 真澄もまた、蓮杖への接し方が変わった。以前のような「推し」への遠慮がなくなり、もっと自然に、もっと親密に接するようになった。 しかし、真澄の心には、まだ一つの疑問が残っていた。 自分は本当に、蓮杖の「すべて」を受け入れられているのだろうか。--- 十二月も半ばを過ぎた頃、蓮杖が大きなニュースを持ち帰ってきた。「真澄、聞いて。来月、新春大歌舞伎で大役をもらったんだ」 夕食の席で、蓮杖は興奮気味に言った。「大役?」「ああ。『京鹿子娘道成寺』の清姫を、単独で演じることになった」 真澄は驚いた。『京鹿子娘道成寺』は、女形にとって最も重要な演目の一つだ。清姫という、恋に狂って蛇に変身する女性を演じる。技術的にも、精神的にも、非常に難しい役だ。「すごい……おめでとうございます!」「ありがとう。でも、正直言って、不安なんだ」 蓮杖の笑顔が、少し曇った。「この役は、父も、祖父も演じてきた。鳳凰院家の伝統を背負う役なんだ。もし失敗したら……」「失敗なんかしません」 真澄は力強く言った。「蓮杖の舞は、誰よりも美しい。絶対に成功します」「真澄……」 蓮杖は真澄の手を握った。その手が、わずかに震えている。「でも、もし僕が失敗したら、真澄はどう思う? がっかりする?」「そんなわけないじゃないですか」 真澄は首を振った。「蓮杖が失敗したって、私の気持ち
真澄が蓮杖と暮らすうちに学んだ、歌舞伎の深い世界。 真澄が初めて蓮杖の稽古場を訪れたとき、衝撃を受けた。 想像していた以上に、歌舞伎の世界は厳格で、伝統に満ちていた。--- 稽古場は古い木造の建物だった。床はすり減り、天井の梁には長年の煤が付いている。 師匠が座る上座には、神棚が祀られている。稽古生たちは、必ず神棚に一礼してから稽古を始める。 三味線の音色が響く中、蓮杖が舞う。 その動きは、一つ一つが意味を持っていた。 手の角度、指の曲げ方、目線の送り方。すべてが計算され、何百年もの伝統の中で磨かれてきた技術だった。--- 真澄は、蓮杖から歌舞伎の基礎を教えてもらった。「女形はね、ただ女性を演じるだけじゃないんだ」 ある夜、蓮杖が説明してくれた。「理想化された女性、というか。現実の女性以上に女性らしい存在を表現するんだ」「理想化……」「そう。だから、動きは実際の女性よりもずっと繊細で、優美でなければならない」 蓮杖は手本を見せてくれた。 扇を持つ手の動き。それだけで、女性の優雅さ、色気、恥じらい、すべてが表現されていた。「すごい……」 真澄は息を飲んだ。--- 化粧についても、蓮杖は詳しく教えてくれた。 女形の化粧は、「白塗り」と呼ばれる。顔全体を白く塗り、目元に紅を差し、眉を描く。「これがね、すごく時間がかかるんだ」 蓮杖は鏡の前で、実際に化粧をしながら説明してくれた。「まず、油を塗って、その上に白粉を重ねる。何層も重ねて、陶器のような質感を出すんだ」 真澄は魅了された。蓮杖の顔が、少しずつ「女形」に変わっていく様子を、間近で見ることができた。「目元はね、特に重要。女形の色気は、目で表現するから」 蓮杖は目尻に紅を差した。それだけで、印象が大きく変わった。
師走公演の初日。歌舞伎座は観客で埋め尽くされていた。 真澄は三階席に座っていた。以前と同じ、一番後ろの安い席。しかし、今の真澄にとって、この席は特別な意味を持っていた。 ここから、蓮杖の舞台を見る。彼が完璧な女形として輝く姿を。 そして、真澄だけが知っている。その輝きの裏に、どれだけの不安と努力があるかを。 幕が開いた。 三味線の音色が響き、舞台に光が満ちる。花道から、白拍子の姿をした蓮杖が登場した。 真澄は息を飲んだ。 美しい。圧倒的に美しい。 蓮杖の纏う打掛は紅白の鹿の子模様で、金糸が照明に煌めいている。白塗りの顔に紅を差した姿は、まさに人形のよう。しかし、その動きは生きている。しなやかで、優美で、魂が宿っている。 『娘道成寺』の舞が始まった。 白拍子花子が、道成寺の鐘の前で恋心を舞う。扇を持った手が空中を滑り、足が床を静かに踏む。その一つ一つの動きが、計算されていて、しかし自然で、見る者を魅了する。 真澄は涙が出そうになった。 素晴らしい。本当に素晴らしい。 これが、自分の愛する蓮杖の舞台だ。 しかし、真澄の心は複雑だった。 舞台の蓮杖は完璧だ。しかし、真澄は知っている。その完璧さの裏で、彼がどれだけ苦しんでいるかを。 昨日の朝、不安で震えていた蓮杖。「完璧でなければならない」という重圧に押し潰されそうになっていた彼。 真澄は、舞台の蓮杖と、普段の蓮杖の両方を知っている。 そのどちらも、愛おしい。 舞が終わり、幕が下りた。観客から大きな拍手が湧き起こる。真澄も必死に拍手した。 蓮杖、素晴らしかった。本当に素晴らしかった。--- 公演が終わり、真澄は楽屋口へ向かった。 蓮杖から、「公演が終わったら楽屋に来てほしい」と頼まれていた。真澄は緊張しながら受付で名前を告げると、案内されて楽屋の奥へと進んだ。 廊下には独特の匂いが漂っていた。白粉、鬢付け油、お香。歌舞伎の楽屋特有の、濃密